民俗学者 川島 秀一

海と生きてきた暮らし

1952年宮城県生まれ。法政大学社会学部卒業。博士(文学)。東北大学附属図書館、気仙沼市に勤務。宮城教育大学非常勤講師、神奈川大学特任教授、東北大学災害科学国際研究所教授を経て退官。気仙沼市では市史編纂室、図書館。気仙沼・本吉地域広域行政事務組合ではリアス・アーク美術館に勤務し、同館副館長を務めた。著書に『海と生きる作法―漁師から学ぶ災害観』『安さんのカツオ漁』『津波のまちに生きて』『魚を狩る民俗―海を生きる技』『追込漁』『カツオ漁』『漁撈伝承』など多数。

1952年宮城県生まれ。法政大学社会学部卒業。博士(文学)。東北大学附属図書館、気仙沼市に勤務。宮城教育大学非常勤講師、神奈川大学特任教授、東北大学災害科学国際研究所教授を経て退官。気仙沼市では市史編纂室、図書館。気仙沼・本吉地域広域行政事務組合ではリアス・アーク美術館に勤務し、同館副館長を務めた。に勤務し、同副館長を務めた。著書に『海と生きる作法―漁師から学ぶ災害観』『安さんのカツオ漁』『津波のまちに生きて』『魚を狩る民俗―海を生きる技』『追込漁』『カツオ漁』『漁撈伝承』など多数。

気仙沼の町の形成の歴史は、いわば埋め立ての歴史です。「山海至近」である三陸リアス海岸の地形を「天然の漁港」として生かす一方、人々の生活に適した平野が少なかったことから、湾を埋め立てた人工の港が造られました。また陸とも海ともつかぬ低湿地を埋め立てることで境界線を明確にし、大型の船が停泊できる水深のある港に整備。造船技術が伝えられると、山の森林資源を使ってカツオ一本釣り船のような大型漁船を造ることが可能となり、漁業や他地域との往来が盛んな気仙沼へと発展しました。

この気仙沼市域の埋め立て地は、2011年の東日本大震災の大津波によって浸水。これまでも度重なる津波に見舞われている気仙沼ですが、それでも人々が住み続けてきたのは、海からの「寄り物」、つまり魚を捕りやすい地形だったからと言われています。リアス海岸が形成する汽水域は波が穏やかで、魚が産卵しやすい環境。漁師言葉で“魚寄りが良い”気仙沼湾は、大きな袋網のような役割を果たしたのです。

こうした寄り物を受け入れる精神性は、魚だけでなく、他国の人々やその技術、文化にまで及び、気仙沼の産業や文化の振興をもたらしました。これらの寄り物に対する包容力は、震災からの復興の過程にも同様に言えること。新しい人材の受け入れや他地域との交流が、このまちの躍動力につながっています。